イベント詳細
2026.02.01
【連続ワークショップ 国立ハンセン病資料館で考える人権】
参加者のふりかえり
新規事業開発(普及啓発)準備室では、ハンセン病問題に関する主体的な学びと、持続的な継承に向けて、ボランティア・継承者の育成プログラムのあり方を検討しています。若い世代の方々にご協力いただき、知識偏重ではなく対話的なかかわりによって差別や偏見への気づきを得る方法をめぐって、少人数による連続ワークショップを通じて模索中です。加えて、ハンセン病問題と、若い世代の人びとが直面しているさまざまな人権問題とのリンクを探しつつ、「自分ごと」としての理解と継承に向けた試みを行っています。
ここでは、2024年度・2025年度の参加レポートの一部をご紹介します。若い世代が何に注目し、どのように偏見や差別と向き合おうとしているか、その一端をご覧ください。
【2024年度】
(社会学部4年 教員志望)
これまでの自分は、知識がないということを自分の立場性のせいにして、問題を語ることから逃げてきた節があるのではないかと思います。知らないことについては語らない、というのは謙虚なようでいて、その実、問題に向き合わなくても生きていけるという特権を行使しているだけであると気づきました。知識を身につける過程では、誰かの気持ちを損なうような至らない発言をしてしまうこともあるかもしれないけれど、だからといってそれを回避するために発言しないことは、結局自分の保身にしかならないのではないかと思いました。
自分には、将来社会科の教員になりたいという夢があります。教師になる以上、語ることから逃れることはできないのだから、生徒たちに自分の言葉でいろんな問題を説明できるように学び続けたいと思いました。
(文学部4年)
家族の発言から「その発言は明らかにまずい!」というものが飛び出したときは、その場で指摘するようになりました。指摘して、すんなり受け入れてくれるときもあれば、頑固に主張されるときもあります。そのため、指摘するときは、どう指摘すれば誤解なく伝わるかを、いまだに試行錯誤し続けています。記憶のかぎりでは、ワークショップ参加以前、家族の発言の「明らかにまずい部分」に震撼したことはほとんどなかったとおもいます。それだけに、最近において家族の発言に「明らかにまずい」ものがけっこう含まれていることに、驚いています。私が家族の発言に気づくようになったのか、家族が急に多くの「まずい発言」をするようになってしまったのか、わかりません。しかし、もう立派な大人である家族が後者に該当すると思うのはあまり妥当ではない気がします。そう考えると、WSを経て自分が変わっていったのではないかとおもいます。
(文学部卒)
プログラムの準備のために改めて展示をよく見て、はっきり言及されていない存在へ意識を向けたり、展示に関してなぜ自分がそう感じたのかをじっくり考えることで、自分の中にあった偏見に気付いたりもした。例えば、私たちがプログラム内で展示を見るポイントとして設定した「日常生活の自由が制限されている」という視点で改めて展示を見たときのことだ。私は療養所内の生活の中で一日のスケジュールが決められていたり、雑居部屋で他の入所者と共同生活をしていることについて、これまで特に「自由の制限」だと強く感じることは無かった。しかし、自分のリズムで生活できないことや、ひとりになる時間が無いことは私が一番ストレスを感じることであるはずだった。それに気が付いたとき、自分の中に「療養所のような場所では、一定の規範の中で誰かと共同生活をするのは当たり前だ」という認識があることを思い知らされた。
(修士課程2年 博物館・美術館関連職種志望)
表現が難しいのですが、私はこのワークショップを通して、ずっと自分はどこかズレているのではないかと思っていました。トライアルの最後で私は「当事者ではないものとして語ることがずっと不安だった」と言いました。しかし、本当は違ったのだと思います。私は、「私の無意識な差別的言動がどこかで顔を出すのではないかと不安だった」のです。
(修士課程2年 教員志望)
私は、「当事者」の語りを引き継ぐこと、それを自分で消化して、これからの議論に繋げていくことに難しさを感じていたのだと思います。それは、「当事者」と、当事者ではない自分との間には、どうしても埋められない距離があると考えていたからでした。
けれど、「当事者」の語りの変化や、時を経て語り始めた人に出会う時(実際の語りを聞くことはできなかったとしても、そのような事実を知る事ができた時)、その時代、その社会で共に生きている多数の「聴き手」がいた、そして今もたくさんの「聴き手」がいることを知りました。
私は「当事者」と同じ立場で語る人にはなれなくても、残された語りを聴いて、記憶する人になれると思います。また、「当事者」としての痛みや苦しみをそのまま感じることはできなくても、隣に立つ人になれると思います。それは、今目の前にある差別と闘うということでもあるし、差別を含んだ社会を常に問い続けるということでもあるし、自分自身が持つ差別性を点検していくことでもあります。
「回復者のいない世界」が徐々に近づいてきます。そんな中で、ハンセン病問題に出会った一人としての自分の立ち位置は、まだぐらついたままです。それでも、私は私として、ハンセン病問題に関わり続けることができるのだと思います。
【2025年度】
(医学部 1年生)
家族との突然の別れ、隔離政策の中で制限され続けた生活、社会の偏見と闘いながら「ふつうの暮らし」を取り戻そうと歩み続けた年月は勿論ありつつ、その人自体は明るく楽しんでいた部分もあったことを知った。その語りを知った後の義足は、ただの物ではなく、その人の積み重ねてきた時間と痛み、願いの象徴として見えた。
私はそこではじめて、抽象的な歴史や大きな枠組みで語られる「隔離」や「差別」と、その中に生きた“個の経験”がどれほど違うのかを肌で理解した。歴史は一つの言葉でまとめられてしまうが、その背後には数えきれない人生があり、それぞれが全く異なる物語を持っている。授業で学んだ「隔離政策」という概念も、実際にはこの“個”の集積であるはずなのに、私はそれを一つの出来事としてしか見ていなかったのだと気づかされた。
また、自分が日常の中で「知っているつもり」になってしまう危険性も感じた。義足を見たとき、私はそこにただ「物体」としての印象しか持てなかった。しかし背景を知った途端、その見え方は全く異なるものへ変わった。おそらく、私は生活の中でも同じように、多くのことを表面的に理解したつもりで受け流している。想像を止めた瞬間、見えなくなるものが確かに存在するのだという恐ろしさを感じた。
一言で説明される歴史の陰には、そこに生きた人々の小さな出来事、細やかな気持ち、日常の工夫や苦労が詰まっている。それらは普段の生活ではほとんど省略されてしまう。しかし今回、その“小さなこと”に触れる機会を得たことで、歴史が急に自分にとって“他人事ではないリアルな出来事”として立ち上がってきた。
そして、その“小さなこと”は意識していなければすぐに見えなくなってしまう。継承とは単に知識を受け取るだけでなく、受け取ったものを見失わないよう心のどこかで持ち続けようとする営みなのだと理解した。
(総合政策学部4年)
実際に義足に触らせていただいた体験も忘れられない。ハンセン病患者の方が使用していたもので、私はそれを初めて目にし、手に取った。義足を通してその人の生活を想像するという体験は、単なる知識の習得ではなく、具体的な生活の実感を伴った学びとなった。差別や隔離の歴史を「遠い過去の出来事」としてではなく、日常の延長線上にあるものとして身近に感じることができたのは大きな収穫であった。
ワークショップを通じて「複合差別」という概念を初めて知ったことも大きな学びである。差別は単一の属性に基づくものではなく、性別・障害・社会的立場など複数の要素が重なり合って構造化される場合がある。その複雑さを理解し、一人ひとりの経験に向き合うことが重要だと痛感した。これは私の卒論の方向性を決定づける契機となり、差別の構造を分析し、複合差別の視点からハンセン病問題を考察するというテーマへとつながった。
(文学部3年)
実際に参加してみて、感じたことをいくつか羅列する。
まず、新秋津駅から資料館までの道に対する想いの変化だ。最初に歩いた際は何も感じない「ただの道」だった。しかしこの道が隔離への道だということを学び歩くと意味が変わってくる。往復できる(駅まで帰って来られる)ことはどれだけ特権のある人ができる行為だったのだろう。初めて3mの垣根を見たときに何を感じたのだろう。普通に歩いていたら川や煙突は視界に入らない。目的地の資料館までのGoogleマップのスマホの画面しか見えていないからだ。私からしたら「忘れさられる道」、人によっては「人生で最後の出発と終点の違う道」人生のターニングポイントとして文字に残す方も多い道である。この認識の差は時代が変わったからではなく知識の差と特権性をもつ人が見ないふりをしていることを鮮明に表している。
(文学部卒)
レクチャーで教えて頂いた療養所内に存在した差別(複合差別)のうち、地域による差と国籍による差が自分には見えていなかったこととして印象に残っている。特に、沖縄と本土の差、国籍による差は戦争によって生まれ、線引きが変わるということにはっとした。今年は太平洋戦争終結から80年だが、そこで生まれた差別はいまだ解消されておらず、戦争は今も各地で起こっている。つまり、このような差別は今も、そしてこれからも生まれうるということだ。ハンセン病問題はハンセン病に関することだけにとどまらず、普遍的に差別と人権を考えることに繋がっているなと改めて実感した。
※2025年度は、大学教員の方もご参加くださいました。
(総合政策学部 教員)
今回の経験は、教員としての姿勢に大きな示唆を与えました。私は、学生や裁判に関わる関係者から相談を受ける際、つい話を整理し、評価軸に乗せて理解しようとしがちです。しかし、人の言葉は必ずしも整っているわけではなく、矛盾する感情や未整理の思いが併存しています。その「まとまらなさ」をそのまま受け止めることが、他者を尊重する態度につながる。これはまさに、ワークショップが目標とした「他者性」の理解に直結する学びでした。
(医学部 教員)
学芸員の解説を聞きながらテキストを解釈していく中で、「人が生きるとは何か」「生きる意味は何か」「社会とは何か」「人権とは何か」といった、普段は立ち止まって考える機会の少ない、本質的な問いに向き合う、貴重な時間と空間を過ごすことができました。
一方で、どれほど想像し、考えを巡らせても、隔離された空間で生きることの現実を本当に理解することはできない――その不安や限界、そして自分の無力さのような感覚も抱いていました。しかし、回を重ねるごとに、その「わからなさ自体を大切にする」という他者性のあり方に気づき、たとえ本当のところはわからなくても、向き合い続ける姿勢こそが重要なのだと感じるようになりました。
2026年度は5月から10月まで計8回・定員10名の連続ワークショップを実施予定です。
関心をお持ちの方は4月24日(金) 17時までに、下記連絡先へお問い合わせください。
(定員に達ししだい申込みをしめきります)
新規事業開発(普及啓発)準備室
電話:(代表)042-396-2909 (直通)080-2900-5723
メール:nishiura@nhdm.jp