Q&A

Q1    ハンセン病はどんな病気?

A1


 ハンセン病は「らい(きん)」に感染することで起こる病気です。発病にはその人の免疫力(めんえきりょく)抵抗力(ていこうりょく))や衛生状態(えいせいじょうたい)栄養事情(えいようじじょう)などが関係しますが、日本では、感染し、発病することはほとんどありません。(なお)る薬がない時代には手足に変形を起こすことがありました。その変形のせいで、社会の人から嫌われてしまうこともありました。今ではよく効く薬が作られ、早く病気を見つけて正しい治療(ちりょう)を行えば(なお)るようになりました。

 

 

Q2    ハンセン病はいつ頃から出現したのですか?

A2
 大変古くから存在する病気です。今から4000年前(紀元前2000年ごろ)に、エジプト、中国、インドの古い文書(こもんじょ)にハンセン病について書かれています。日本では、1300年前(8世紀前半)につくられた「日本書紀(にっぽんしょき) 」という歴史書に100年前(7世紀前半)の出来事として「(びゃく)らい」(皮膚にできる白い発疹)のことが記されています。

 

 

Q3    昔の人はどのようにしてハンセン病のことを知ったのですか?

A3
 ハンセン病は、皮膚(ひふ)末梢(まっしょう)神経(しんけい)(おか)される病気です。治療薬のなかった時代には、顔や手足に皮疹(ひしん)(皮膚の発疹)ができたり、顔・手・足の形が変わったりすることからハンセン病と考えたようです。

 

 

Q4    ハンセン病はどのようなことが原因で感染や発病するのですか?

A4
 ハンセン病は、らい菌による普通の病気です。らい菌が体に入っても、多くの場合、体の抵抗力でらい菌は、排除されます。らい菌は、発病させる力が弱く、たとえらい菌に感染しても、現在の日本のように、十分な栄養がとれ、衛生的な社会では発病することはほとんどありません。しかし、免疫力が弱い乳幼児の頃、多くのらい菌が何回も体の中に入った時に感染し、その人が年を取り病気などで抵抗力が低下したときに発病することがたまにあります。

 

 

Q5    ハンセン病は、どのような薬で治療するのですか?

A5
 現在は、ダプソン、クロファジミン、リファンピシンなど多くの優れた治療薬があります。ハンセン病は、これらの薬を組み合わせた多剤併用療法で治ります。

 

 

Q6    ハンセン病患者から感染しますか?

A6
 らい菌は、多剤併用療法により数日で感染力を失うので、他の人に感染させることはありません。ハンセン病は、治療中でも治療終了後も社会で共に働き・学び・一緒に過ごすことができる普通の病気です。

 

 

Q7    早期発見とは、どの段階なら早期ですか?

A7
 早期の症状としては、顔や手足などの体温の低いところに現れる皮疹(ひしん)(皮膚の病変)と、末梢(まっしょう)神経炎により、痛い、熱いなどが感じにくくなるなどの知覚(ちかく)障害(しょうがい)が出てきます。さらに運動障害を伴うこともありますが、この段階で、治療を始めればほとんど障害を残さず治ります。もちろん治療中でも患者さんは、学校に通うことも、家族と一緒に過ごすこともできます。

 

 

Q8    ハンセン病になると、ハンセン病療養所に入れられるのですか。

A8
 ハンセン病療養所に入る必要はありません。1996年に「らい予防法」が廃止されハンセン病の治療に保険が使えるようになり、大学病院や一般病院皮膚科で通院して治療ができるようになりました。

 

 

Q9    現在のハンセン病患者さんは、日本に何人ぐらいいるのですか?

A9
 世界全体で新規患者数は年間約22万人、日本人は年間0~数人です。日本人の新規患者は、70歳前後の高齢者がほとんどです。ほかに治ったあとに再発する人が年間3~5名人出ることから、日本人のハンセン病患者数は10人前後です。

 

 

Q10    ハンセン病は治る病気だとわかっているのに、なぜ差別や偏見が続いたのですか?

A10
 国は、1931年以降、らい予防法によってハンセン病患者をハンセン病療養所に強制(きょうせい)的に入所させました。患者の出た家を真っ白になるほど消毒をしたり、国民を指導して「無らい県運動」を進めるなどして、ハンセン病は国の恥、恐ろしい病気という誤った意識を国民に植え付けました。終戦後の1947年から、日本の療養所でもアメリカから輸入したプロミンや東大の石館(いしだて)守三(もりぞう)教授の合成したプロミンの治療でハンセン病は治る病気になりましたが、一度、植えつけられた差別意識はそう簡単になくすことはできません。それどころか国は、日本国憲法下においても、らい予防法を廃止せず、強制隔離政策や「無らい県運動」を継続したため、ハンセン病患者と回復者への偏見・差別による人権侵害が助長されることになりました。

 

 

Q11    有効な薬が開発されてからも、なぜすぐにハンセン病患者に薬を投与しなかったのですか?

A11
 1941年、アメリカのカービルにあるハンセン病療養所でプロミンによる治療が始まり「カービルの奇跡」と言われるほどよく効きました。しかし、太平洋戦争のため、アメリカからプロミンの輸入ができず、 終戦後、1947年にアメリカから輸入したプロミンや東大の石館(いしだて)守三(もりぞう)教授の合成したプロミンによる治療が開始されました。患者自治会の働きかけで1949年には、5,000万円のプロミン予算が組まれ、希望者へのプロミン治療が可能となりました。

 

 

Q12    ハンセン病が治る病気だとわかっても、なぜすぐにらい予防法が廃止されなかったのですか?

A12
 日本では1947年にプロミンによる治療が始まり、治る病気になったにもかかわらず、国は療養所での生活や医療の改善の予算の確保を優先して、らい予防法を廃止しないで、強制的に隔離する政策を継続しました。医師や弁護士も積極的に予防法廃止の声を上げませんでしたし、さらには私たち国民の無関心、あるいはハンセン病についての理解不足も、1907年の最初の法律の施行から1996年のらい予防法廃止までの90年間の長期にわたり、らい予防法による人権侵害を通用させました。じつは病気が治った回復者のみなさんたちも、らい予防法の廃止により、生活の場である療養所が閉鎖されてしまうことを恐れました。故郷との(きづな)も断たれていて、病気の後遺症もある、そしてまだまだ社会には根強いハンセン病への差別・偏見が残っていました。回復者のみなさんは、らい予防法の廃止を強く主張できない事情があったのです。回復者のみなさんに、そのような想いを抱かせてしまった国や医学会、法律家、そして社会を構成する私たち国民も反省しなければならないと思います。

 

 

Q13    日本以外の国、海外ではハンセン病とどのように向かい合っていきてきたのですか?

A13
 ハンセン病の治療薬がなかった時代は、多くの国で隔離(かくり)政策が取られていましたが、第5回国際らい会議でハンセン病の治療薬であるダプソンの有効性が確認されてからは、隔離して治療する政策から通院治療に変わりました。

 

 

高学年、保護者向け(Q&A)

Q1    ハンセン病とは、どんな病気ですか?

A1
 ハンセン病は、結核菌と同じ抗酸菌の一種であるらい菌により、主に皮膚と末梢神経が侵される普通の慢性感染症です。らい菌は、他の細菌に比べ増殖が遅いため、病気はきわめてゆっくり進行します。また病気は、早期発見・早期治療により後遺症を起こすことなく治ります。

 

 

Q2    ハンセン病はどのように感染するのですか?

A2
 ハンセン病は、末治療の多菌型患者の鼻腔粘膜から、らい菌が飛沫となって排出され、他の人の鼻腔粘膜など上気道粘膜から感染すると考えられています。

 

 

Q3    日本でハンセン病を発病する人は、何名位いるのですか?

A3
 日本人は、年間0~3名で70才前後の高齢者の発病が多く、在日外国人は、年間2~4名で、20~30才の若い人の発病が多いです。

 

 

Q4    ハンセン病は、感染すると発病するのですか?

A4
 らい菌が体内に入ったからといって必ず感染するわけではありません。多くの場合、体の免疫力によりらい菌は排除されます。感染とは、外部から菌が入り、感染防御免疫(抗体陽性)が成立し、症状が出ていない状態で、その後らい菌は免疫により排除されるか、または封じ込まれたままで、ほとんどの人は一生涯発病しません。もちろん周囲の人に感染させることもありません。発病とは、感染したあと高齢化や病気などで免疫力が弱まったとき、体内に封じ込まれたらい菌が再び活動を始め、皮疹や結節が現れたり、末梢神経障害を起こすなど、人体に何らかの不都合な症状を起こすことです。

 

 

Q5    ハンセン病は、どのような場合に発病するのですか?

A5
 免疫力が弱い乳幼児期に多量の菌で繰り返し感染を受けた人が、高齢になり病気などで体の免疫力が落ちたときにまれに発病することがあります。

 

 

Q6    ハンセン病になるとどの様な症状を起こすのですか?

A6
 ハンセン病は、主に低体温部の皮膚と末梢神経に病変を作ります。ハンセン病の初期には、皮膚に知覚障害(触覚、痛覚、温度覚)を伴うことのある紅斑や結節が生じます。またらい菌は末梢神経を侵すことから知覚障害や運動障害を起こします。

 

 

Q7    ハンセン病を発病するとハンセン病療養所に入れられるのですか?ハンセン病は、どこで治療してもらえるのですか?

A7
 ハンセン病療養所に入所する必要はありません。1996年の「らい予防法」廃止に伴いハンセン病治療に保険診療が適用され、大学病院、一般病院皮膚科外来で通院治療が出来ます。
 ハンセン病の検査・診断・治療などを医師・医療関係者にアドバイスする「ハンセン病診療協力ネットワーク」(皮膚科医、病理医、ハンセン病研究センターなどが参加) があります。また、ハンセン病治療のガイドラインとして日本ハンセン病学会が作成した「ハンセン病治療指針(第3版)」があります。

 

 

Q8    ハンセン病は、どのような薬で治療するのですか?

A8
 ハンセン病は、多剤併用療法(MDT)による治療を行います。少菌型は、ジアフェニルスルフォン(DDS)とリファンピシン(RFP)の2剤を6ヶ月間、多菌型はDDS、クロファジミン(B663)、RFPの3剤を1~2年間服用することで治ります。
 1982年に多剤併用療法(MDT)が開始され、 世界のハンセン病患者数は1985年に535万人でしたが、2009年には21万人に激減しました。
 現在使用されている多剤併用薬のほかに、レボフロキサシン、クラリスロマイシン、ミノサイクリンなど多数の抗ハンセン病薬が開発され、治療の選択肢が広がっています。

 

 

Q9    ハンセン病患者から感染しますか?

A9
 らい菌は、多剤併用療法により数日で感染力を失うので、治療開始後は、他の人に感染させることはありません。ハンセン病患者は、治療中でも治療終了後も社会で共に働き・学び・一緒に過ごすことができる普通の病気です。

 

 

Q10    ハンセン病療養所に入所している人の中には、顔や手足が変形している人がいますが接触してもだいじょうぶですか?

A10
 ハンセン病回復者は、治療薬がなかった時代、らい菌により低体温部の眼・鼻・咽頭、皮膚、末梢神経が侵され、顔や手足が変形する場合がありましたが、これらは後遺症でハンセン病自体は治っており、接触しても感染することはありません。現在は、多剤併用療法が確立され変形などの後遺症は、ほとんど残さずに治ります。

 

 

Q11    世界では、新しく発病するハンセン病患者数は、どのくらいですか?

A11
 世界では年間約22万人(2012年)がハンセン病を発病しています。ハンセン病多発国では、WHOの多剤併用薬を半年から1年間服用することで患者登録から外されます。

 

 

Q12    世界のハンセン病は克服されたのですか?

A12
 ハンセン病は、人口1万人に対し、1人以下の患者数になった場合、公衆衛生問題として解決した、即ちハンセン病を制圧 (elimination)したとされます。ほとんどの国がハンセン病を制圧しましたが、2012年の末制圧国は、ブラジル、リベリア、南スーダンの3カ国のみになりました。

 

 

 

平和さんへの質問コーナー

Q1    平沢さんが全生園に入所した時のごはんは、どのようなものでしたか?

A1


 私が来た時はね、麦が60%、お米は40%。朝は患者(かんじゃ)さんが作った野菜のみそ汁だけ、昼はつけものだけ、夜は野菜を煮たおかずひとつだけでした。白菜ができる時は毎日白菜ばっかり食わされました。じゃがいもができる時は、じゃがいもばっかり食わされました。たまごはお正月に1回だけ1個。肉もお正月に1回だけ食べる。こういう食事でした。やはりハンセン病は、おいしいものを食べて、からだを安静(あんせい)にしてそして病気を(なお)すのに、まずいものを食べさせられて(栄養(えいよう)のないもの)、それで厳しい休みのない仕事をさせられたから、みんな病気を悪くしました。
 9月28日が開園記念日で、毎月、麦のごはんじゃなく、28日にはうどんをゆでて、みんなに食べさせたんです。その当時はうどんが大変おいしかったです。また、おなかが空いた時さつまいものゆでたのを、本当にみんなでおいしく食べました。
 昔、松舎っていう少年寮(しょうねんりょう)がありました。まだ学校もなかった時代に、そこの松舎は1棟に4部屋あって、山吹舎は4つ部屋があるでしょう。4つ部屋があって、山吹舎は12(じょう)半だったけれど、子どもの部屋は18(じょう)の部屋が4つあって、それで1号室にりょう父さんがいて、いろいろと面倒(めんどう)をみてくれたり、相談にのってくれたりした。山吹舎と同じように4部屋でした。

 

 

Q2    ひいらぎが2メートルもあり、逃げたらかん房に入れられることを知っていても、全生園から逃げ出そうと思ったことはありますか?

A2
 あります。やはり無断(むだん)で。この近くは全部雑木林(ぞうきばやし)の山だったんだよ。今、家がいっぱいあるけど。そこにね、くりとかきのことか取りに行って、そしてみんなで食べたりしました。でも見つかったらかん房に入れられるから、みんなで見つからないようにして。“出られない”“行けない”っていうところは、行ってみたいと思うので、病院がいやで逃げ出す人もいっぱいいました。

 

 

Q3    全生園に入っている時に、仲の良い友だちはいましたか?

A3
 はい、いました。すもうをとったり、野球をやったり、そして勉強したり仕事をしたり、仲の良い友だちが大勢いました。友だちのおかげで私は、今日までこうしてあきらめないで生きてこられたと思います。

 

 

Q4    平沢さんが全生園で一番好きな場所はどこですか?

A4


 やはり望郷(ぼうきょう)の丘です。あそこは私の子ども時代から、さみしい時も、苦しい時も、悲しい時も、うれしい時もあの丘に登って、自分の心を安らかにした場所だからです。望郷(ぼうきょう)の丘はね、大正11年ごろ、当時はひいらぎのかきねじゃなくて、板のかきねだったんです。板のへいがあって、その外へ逃げていけないように、2メートルくらいの穴を掘らされた。
 それでその土を、外に行けないんだったらこの土で、丘を作って外をながめたらどうかということで、私たちの先ぱいが3年がかりで作った。高さは約10メートルあります。今は木が大きいけれど、昔は掘った土と周りの土を集めて、中にはからだが弱くて土をもっこでかつげない人は、みかん箱に土を入れたり、バケツに土を入れたりして運んだ。
 だから望郷(ぼうきょう)の丘は、私たちの全生園の先ぱいたちの、血と涙で築き上げられた丘です。それで丘を作って、外をながめるようになって、だれが言い始めるでもなく、望郷(ぼうきょう)の丘という名前がついた。作るのに3年間かかったんです。

 

 

Q5    望郷(ぼうきょう)の丘から故郷(こきょう)をながめる時、どんな気持ちでしたか?

A5
 やはり“帰りたいなぁ”“友だちはどうしてるんだろうな”“お母さんやおばあちゃんたちは、どうしてるんだろうな”と、今は木がいっぱいで外は見えないけれど、昔は富士山もこっちのほうに見えたしね。それから東北のほうには私のふるさとの、筑波山(つくばさん)も見えたし、西のほうからずっと秩父(ちちぶ)の山々もよく見えたんです。特に冬は、ここはからっかぜといって、風が吹くから空がすみわたって、そして今の所沢街道(かいどう)を、お百姓(ひゃくしょう)さんが車を引いたりして通るのがながめられた。自分も早くそこを歩きたいなぁとこう思いました。

 

 

Q6    平沢さんは木を植える時に、どんな木を植えたんですか?

A6
 最初は、すぐ育つひのき、松。来る時にサクラがあったでしょう。あのサクラは、昭和30年に私が植えた、サクラの木なんです。58年経ってるんです。だからそのとき生まれた子は58才になってるの、校長先生がまだ子どもの時代、まだ生まれていない時に植えたサクラ、でも当時はみんな、花が咲いても見に来てくれなかった。全生園のサクラを(見に)行くと病気が怖いって言って、今はもう土曜、日曜になると、3000人も5000人も見に来て、われわれが花見も出来ないほど。全生園には約500本のソメイヨシノっていうサクラとか、サクラでも十何種類のサクラがあります。シダレザクラとか八重(やえ)ザクラとか、ヤマザクラだとかそういうサクラが沢山あります。

 

 

Q7    何才の時が一番幸せでしたか?

A7
 むずかしい話だな。やっぱり少年から青年時代までは、からだも元気だったし、野球をやったりかごを作ったり、なんでも出来たからね。やっぱり10代の後半から20代にかけてで、目的があったから、どんなことがあってもふるさとへ帰るんだっていう、そういう願いが強かったから、それに向かって毎日毎日、つらさをたえて、幸せに日々を送りました。
 だけどハンセン病になって、いろいろいじめを受けたり、いまだに公然と生まれた家には帰れません。でも私の生まれ故郷(こきょう)母校(ぼこう)の子どもたちは、毎年のように“来てください”と言ってくれる。そういうことが他の人はできないけれど、私にはできるということで、それもみなさん方、そして私の友だち、先生方、多くの人たちが私を支えはげましてくれたから、そういうことができると思って、常に感謝の気持ちを持っています。

 

 

Q8    今までどんな所に行きましたか?

A8
 世界の国々は11か国行きました。ソビエト(当時)デンマーク・ドイツ・フランス・スペイン・旧ユーゴスラビアの3国・インド・中国・韓国・ハワイ・アメリカ。日本でも行っていないところは、徳島県と佐賀県の2つだけです。あとはおかげさまで行かせていただきました。
 さっき言ったように、ハンセン病になって、からだが不自由になって、年を取っていても、一生けんめい生きていれば、みなさん方が“来てほしい”と言って、呼んでくれるので大変ありがたいと思っています。
 今一番成しとげたいことは、私たちが植えた緑が、私たちがいなくなった時、切り倒されて、家が建てられたりしないように。そういうことと、数多くのみなさん方のような子どもたちに、年を取っても会えるように、からだに気をつけていきたいなと思っています。

 

 

Q9    平沢さんの考えは今と昔でどう違いますか?

A9
 同じです。でもねやはり、常に自分とたたかっているんです。人間ですから弱気になる時もあるけれど、そうした考え方を前向きにさせてくれたのは、くり返して言うけれども、一年に何千人と会ってくださる人たちのおかげです。
 特に小学校の児童(じどう)さんが私は主力です。小学生のみなさんが大好きなんです。よく聞いてくれるし、よく勉強してくれるし、よく行動してくれるから。中学生とか高校生も勉強などをしてくれるんですけれど、小学生の人たちが一番まじめにやってくれるから、大好きです。

 

 

Q10    これからぼくたちにやってほしいことはありますか?

A10
 ひとつは自分を大切にすること。自分を大切にすることは、他の人を大切にすること。そういうことができることによって、ハンセン病の人たちや、ハンディキャップを持っている障害者(しょうがいしゃ)や、おとしよりの人たちを大事にできる。
 特にハンセン病のことについては、正しい医学的なハンセン病のことを勉強して、まちがった考え方の人たちに教えてあげてほしい。ぜひ全生園に遊びに来て、資料館にも来て、ハンセン病の人たちがどう生きたのか、そしてどういう状況だったのかということを、知っていただけるように力を貸していただければ、大変うれしいです。